れっかの、あるあるブログ

~いろんなことあるけど、前を向くのをやめないでね~

やる気がないのは反抗でした。

話が少しばかり以前に戻りますが

息子が小6の時です。

 

運動会でみんなと一緒に踊る時に

凄くふまじめに、

それはもう見て取れる程、超ふまじめ。

 

先生から怒られてもいいほど

「惰性」をダンスで表現していました。

 

父親はその後、息子を𠮟りましたが

何も言わない息子を見て

私にはよーくわかりました。

 

軍隊のように、みんなと同じ動きのどこが良いんだ。

自分はこんな踊りなんかつまらない!と

反発しているのが手に取るようにわかりました。

 

なんせ、ブレイクダンスにはまり、

6畳の和室は勝手に息子の練習場になってしまい、

たぶん、バック転ができたのは

同学年でこの子だけでした。

(でもバック転は首をやられると

大変だからやめろと父親に言われました。)

 

ハマるともう凄いんです。何時間もやり続けるので

思わず私は、

「あなたの特技は努力やね。」

と言ったくらいです。

 

私もよくわかっていない状態で申しますが

戦後の名残でなのか、日本のスタイルだったと言うのか

みんな同じように育てていく教育そのものに

今を生きる息子の反抗ではなかったかと。

 

現に、今現在の授業にダンスを取り入れているではないですか。

次のオリンピックではブレイクダンスもあるとか。

 

今でも「おとーさん、おかーさん、せんせい、いたーだきます」

と園児たちは手を合わせて、みんなが同じような口調で

感謝を口にするのを励行されているのでしょうか?

感情がこもらないこの言い方に

何の意味があるのかと首をかしげます。

 

分かり易い例えで言うと、日本人って

複数人で、「大谷選手頑張ってー!」

と同時に叫びます。

これも幼児期からの全員で一緒に言いましょう

と教えられた?言い方の延長かと。

 

外人だと一人一人が思ったことを

バラバラに表現している、その違いが明らかに分かります。

 

10代前半の女の子や、その年代から

スケボーやゴルフやサッカー等で輝かしい成果を上げている

少年少女達がいるのは

こんな軍隊的な粉末を飲用していないからだと思うのです。

 

お国のためのプレッシャーでご自分に才能があるばかりに

押しつぶされてきた日本代表選手から時代は変わり、

 

肝の座った、本番に強い子になって

今や日本は実にクール!!

 

みんなと同じじゃつまんないんだよー!

と小学校の運動場で抵抗した息子の惰性に

 

あくまで親バカ主観ですが

私としてはそんな反抗を姿にしたのが

勇気ある反抗とまでは言いませんが

タイトル通り、

やる気がないのはいけませんでしたが

やる気の出ないダンスに対する

小6の息子の反抗だったと思います。

 

 

 

母の認知症について20年前の対応の違い。

父が亡くなり、母がひとりになってからの方が

実家に行く頻度が多くなっていました。

 

それは仕事に、子育てに、家事にとその日その日を

無事に必死で過ごしてきたからですが、

今やもう子供たちは中学生ですから。

 

その日、実家に行った時、

母が煮物を空焚きしているのに気づき、

 

母をこのまま一人で住まわせるのが不安になり、

母自身、ここに入ろうと思っていると手渡されたのが

年寄りでも身近に情報が手に入るコープのチラシでした。

 

読んでみると、入居するのに100万円です。

郵便局とコープというのは、無条件で年寄りが

大好きなのはわかっていますが、

全く年寄りをなめんなよって感じです。

 

ましてや、100万円出しても惜しくないほどの

施設なのかなんて思いもしませんし。

 

「お母さん、入居するのに100万円要りますなんて所はやめとこ

私が一番良い所を探してあげるからね。」

と母に約束しました。

 

そして施設長をしている友人に相談します。

彼女は看護師の免許を取得した後に

老人ホームを立ち上げた起業家で、

 

彼女の口癖は、介護側ではなく

「老人を苦しめるのは私が許さん。」でした。

 

実家に来てもらって、母と屈託のないおしゃべりを

じっくりして、

帰る彼女を庭に駐めた車まで見送ると、

 

「あんたにはわからんやろうけど、

まだらが始まってるね。

景色の良い部屋を用意しておくから

考えてみて。」

と言って施設に帰りました。

 

私には母のそのまだらが

全くわかりません。

 

本音を言うと、友人の助言を鵜吞みにしていいのか

とまで考えました。

しかしこのタイミングで

友人が毎日のように母を見て言葉を交わしてくれる、

こんな好条件はありません。

 

 

兄に話すと開口一番、

「なんでそんなところにお母さんを入れるんだ。」

と。

 

今の施設に対する需要とは大違いの、

20年前は「そんなところ」呼ばわりで、

まるで私が悪者扱い。

 

じゃあ、兄ちゃんがこの先面倒見れますかって話です。

それ以前に母が同居を望んでいません。

 

父を看続けてきた、

母にとっての長いお仕事が終わり

 

やがてどこかで頑張り続けてきた糸がぷつっと切れたのか、

 

母の認知症が軽度の状態で

友人の施設にお世話になることとなります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

グラタンがひっくり返った時とデータが抹消された日が問題ではなくて。

こんなことがありました。

 

子供も私も好きなグラタンが出来上がった夕飯時、

 

オーブンの中から引き出して

 

置ける場所に移動するのを主人に頼んだところ、

 

見事に斜めに傾いてぐしゃっとグラタン丸ごと

 

床に落ちてしまったのです。皿は無傷でしたが。

 

娘と息子が駆け寄り、私たちは

 

落ちたそのグラタンをじーっと見ているその横で

 

主人はアラーの神よみたいに土下座して謝っています。

 

 

(みんなお腹が空いているからここで私が腹を立てたら

 

最悪になる。今でいう突破番組です。考えろ、考えろ・・・。)

 

 

ひらめいた!はーい!!

 

「これさー、どっか食べられるとこないかなー。」

 

と言うと、

 

「ここやったら食べられるよー!」

 

と娘が床に全く付いていない部分を指で示し、

 

「そうよねー、そうよねー!」

 

と娘と手を取り合い喜ぶその横で

 

主人はまだアラーの神よと謝っていました。(笑)

 

 

もしここで私が主人に文句を言えば、

 

結果、量の減ったグラタンを食べられたとしても

 

気まずいムードの夕飯になったことでしょう。

 

とっさの判断で、みんなで気分を取り直して

 

楽しい食事ができました。

 

 

 

こんなこともありました。

 

主人が早目に帰って来て、私が配達の売掛伝票を

 

コンピューター入力していた時でした。

 

あなたー、おかえりー。

 

ただいまー、恭子ー。

 

と、フーマンさんと恭子さんのように

 

私たちもこれでも仲が良いんですよー。

 

但し、私が結構いろいろと気を使っている所がお2人とは大違いです。

 

で、私がトイレに行って戻って来たのですが、

 

なんかコンピューターが変なのです。

 

席を離れたその数分の間に

 

主人がコンピューターのどこかを触った一瞬で

 

その月の顧客のデータが全て消えてしまっていたのです!

 

全てです。

 

 

グラタンの時同様に、主人は何度も私に謝りますが、

 

データが元に戻るものでもなく、

 

心の中では何をやってくれたんだと

 

腹が立って腹が立って仕方なかったのですが

 

私はうつむいたまま、

 

「今日はいつ帰れるかわからんから、後よろしく。」

 

とだけ言って、顧客の伝票の打ち込みと

 

先月分からの支払いや残高に間違いがないかを

 

翌日までに何とか元に戻しました。

 

 

私がなぜ主人に非があっても文句を言わないか、

 

いつの間にか気づいたこの人の気の強さ・気の短さで

 

逆ギレされるのを恐れるようになってしまったのです。

 

こんな大変なことをしやがっても

 

数日経てば言葉の暴力があらわになります。

 

 

なぜこの人は平気でこんなにひどいことを

 

言うようになったんだろうと悩みました。

 

原因はすぐにわかったわけではなく、

 

友人に相談すると、

 

「何時頃そうなる?」

 

と聞かれて

 

時間的に考えると、なるほどと思いました。

 

 

それはアルコールが入ることで

 

彼はジキルとハイドになること必至と

 

わかっていきます。

 

 

 

わからない世界だけど、ありがとう!

ご存じの方もいるかもしれませんが

たまたま付けていたテレビで

不思議なことを話す女の子の話が

とても印象に残っています。

 

その子のママは1人目を流産されました。

私と同じです。

 

そしてめでたく生まれたその子が

その不思議なことをママに話す女の子なのですが、

ふーちゃんだったかな?

 

ふーちゃんがママに「ママのお腹に赤ちゃんがいるよ。」

と言いました。

 

後日、妊娠がわかりママはふーちゃんに言うと、

「だから言ったじゃん。」

 

ふーちゃんはどこも大人びた喋り方をするような子でもなく

年中さん位の自然なあどけない喋り方です。

 

しかも、「お腹の赤ちゃんは女の子だよ。」

「なんで女の子とわかるの?」とママが聞くと

 

「あのね。ふーちゃんとその子と天国にいたの。

それでね。その子と別々の滑り台でママのお腹に

行こうねーって滑ったんだけどね。

ふーちゃん、天国に忘れ物したの。

だからその滑り台は使えなくなったの。」

 

ママは子供の作り話だろうと思いながらも

「ふーちゃん、天国に何を取りに行ったの?」

 

「お菓子。お菓子を取りに戻ったの。

でも、その女の子よりふーちゃんが

早くママのお腹に入ったから、

今ママのお腹にいるのはその時の女の子なの。」

 

その後、お腹の子は女の子と判明。

それをふーちゃんに伝えると

「だからそう言ったじゃん。」

とふーちゃん。

 

いきなりのふーちゃんの一言一言と

ママとの会話がなぜ録音されていたのか、

そこが少々疑問ではありますが・・・。

 

それをふーちゃんママは、

自分のように流産した方々にお役に立てるものなら、

それと同時に誹謗中傷の的になりはしないかという

不安がよぎりながらもSNSに投稿したところ、

 

流産の経験のある方たちから

励まされましたとか安心しましたとか

次から次へとお礼の言葉を頂いたそうです。

 

私も1人目が流産で、この悲しみを

どこにぶつけたらいいのかわからない位

辛かったので、

 

ふーちゃんが天国にいた?ところから

まずえーっ、と何とも言えない思いなのですが、

 

うーんという思いなのですが、どこか救われたお話でした。

 

 

心の中でいつまでも。

娘にとって水泳の時間は憂鬱でした。

 

夏の参観日はたいがい水泳です。

 

見学に来た私に「いやー。」と言って

 

暗い顔をしてプールの方向に歩いて行きました。

 

私も水泳は苦手だったので

 

気持ちはよくわかります。

 

そこで、水泳教室に通わせました。

 

水泳に自信のある子とそうでない子は

 

胸の張り方が劇的に違うと知っていたからです。

 

娘が水泳教室に通って、

 

嫌いが好きになれば、もう気分は雲泥の差です。

 

 

さすがにプロです。一からのノウハウで

 

娘は泳げる達成感を味わい、

 

憂鬱のゆの字さえ無くなりました。

 

 

それはこの先、泳ぎ方を一生忘れない、

 

体がもう覚えてしまったから、

 

万が一、危険な状態に遭遇しても

 

生き延びていく対応策になればという

 

想いに繋がったのは、

 

あの、一冊の本からでした。

 

 

 

乙武さんが小学校に入り、

 

担任の先生はとても厳しい方で

 

水泳の時間に乙武少年をいきなり

 

プールに放り投げたそうです。

 

本の文面は忘れましたが

 

そりゃもう、いきなり投げ込まれた

 

乙武少年はショックでもあり、

 

又は屈辱を受けたかもしれません。

 

 

しかし、

 

なぜ僕が君にこんな事をしたか、

 

もし君にこんな不測の事態が起きた時、

 

生き延び方や知恵を体で覚えて欲しいからだと

 

仰ったのです。

 

乙武さんが生まれてきた時、

 

まず、医師からの説明があったうえで

 

我が子を見たお母さんの第一声が「かわいい!」

 

だったこと。

 

公園や買い物にも積極的に連れて行く、

 

その親御さんのお陰で、

 

自分に手足がないことに

 

一度も辛いと思ったことがない。

 

 

選ばれし親、選ばれし母とは

 

この方のことを言うのでしょう。

 

 

娘の水泳の悩みから、ふと乙武さんの

 

厳しくとも不測の事態でも難を逃れられるように

 

訓練されたことを思い出しました。

 

 

マー君のママ、

 

水泳をマスターしたのが始まりかな

 

いろんなことに努力していく娘と共に

 

俄然成長していく息子にアクシデントが。

 

・・・急転直下に見舞われたのが中3の秋でした。

 

 

悲しみは突然にやって来るもので、

 

昔、乙武さんのお母さんのご対応を本で知った時は

 

失敬にも、私には無理だと思ったものでした。

 

 

なぜ失敬かと思ったか、

 

自分には関係のない他人事だと思っていたからです。

 

それが自分事になったなら

 

それでも、現実と向き合わなければいけないのです。

 

辛かろうが、それでも「生きてこそ」と

 

いつも息子を見つめ続け、

 

間違っても神田沙也加ちゃんのようなことは

 

しないでねと本人の意思とは関係なく切望しました。

 

 

 

愛されたマー君は、愛された幸せに包まれ荼毘に召され

 

きっと選ばれし母に感謝してもしきれない思いで

 

マー君ママの心の中で微笑み続けていくことでしょう。

 

 

 

 

 

 

せみ取りができたあの頃。

その年の夏休み、息子は近くの公園に行って

せみ取りをするのが大好きでした。

帽子を被り、せっせとせみ取りに行く息子の姿は

健気で純粋そのものでした。

 

まだ私が店に入らない時間に、

「おかあさん、」

「ん?」

「僕がせみを取っているところを見て欲しい。」

(ふむ、ふむ。)

「せみを取っているところを見て欲しいんじゃなくて、

僕がどんなにせみ取りが楽しいかを見て欲しいっちゃん。」

 

なんて、かわいいことを言われたら

行かない訳にはいきません。

 

今思えばあの頃は、真夏といっても

30℃を超えるなんて事は一度もなく、

稀に27℃とか28℃とか今では考えられない

正常な気温でした。

 

2km離れた小学校に登校する時も

別に水筒の用意をする必要もありませんでした。

 

そう思うと、今の屋内はもちろんですが

屋外での部活の練習や試合は

考えられない暑さとの闘いでもあり、大変ですね。

 

夏に遂に30℃を超えた気温計を見て

驚いたのを今も覚えています。

それ程30℃を超えたのが驚異的でした。

 

今は30℃を超えるなんて当たり前、

下手すると40℃近くになる地域もあり、

クーラーを付けないと生きていけない夏の夜が続きます。

 

 

私は息子の要望通り、喜んで息子と公園に行って

夢中になってせみ取りをする、

夏休みの大切なその時間に付き合えた後

仕事に向かいました。

 

ところが、夢中になりすぎて

暑さにのぼせてしまった息子が店に来て

急いで病院に連れて行くと、

「日射病の手前です。」と先生が。

ごめんね、ごめんね。よく自分の判断で

店まで帰って来たね。

 

 

その頃は日射病、今は熱中症という

危機的用語に変わりました。

 

それを思うと、こんな可愛かった息子のせみ取りは

今のボクたちは経験がないのかも。

せみ自体、暑すぎだーと思いながら

短い生涯を終えるのかな。

 

この3年間はコロナで色々なことがガラッと違う

縛られた生活だったし、

やっとマスク徹底から緩和されたものの、

外に出るとまだまだマスクをしている人だらけです。

 

この先、春が過ぎて梅雨が明けるとまた

ジリジリと暑い夏の到来ですが、

それでもマスクの風景なのかな。

 

去年、夏が大好きなんて言う私の友人が、

入道雲を指差して、「見てごらん。」と。

「力強さを感じない?凄いと思わない?」

確かに迫力満点!モリモリしている!ことに気づきました。

 

 

息子がせみ取りに夢中だった頃のような

30℃以下の夏にはもう戻らないのなら、

 

今年の真夏は、暑い暑いと言うばかりではなく、

眩しい空を見上げて、入道雲のたくましさを感じ、

力を貰おうと思います。

笑い合えるって素晴らしい!

日曜日は主人も私も

子供に合わせて休日にしていました。

 

主人がハウステンボスの年パスを買ったおかげで

行くのはたいがいここでしたが、

 

到着するまでの車の中で

子供たちがはしゃぐ時間は貴重でした。

 

子供たちと私でしりとりのように

歌いながら止まったところで

次の人が歌います。

 

ポで止まったところで私は

「ポ?・・・ぽっきゅうさーん」

と歌ってカウントになり次の人。

 

私の番で「れ」で止まると

「れ?」「れーんろは続くよどこまでもー」

とめちゃくちゃの反則がクリアになって

 

その冗談がわからない息子は

え?それでいいの?何かわからん。

 

の顔を見てその気持ちがわかりながら

そんな笑いの渦の時間が

子供たちを育むビタミンになっていました。

 

 

時には源右衛門や伊万里焼・有田焼等

鑑賞するのに佐賀に行きました。

 

大人にはとても興味のある、

いくらでもこの場所にいたいと思える場所ですが

 

小学校低学年の息子は

何が楽しいのか、何にも面白くない!

なんでこんな所にいつまでもいるんだと

ブーイングです。

 

娘は、

別に興味はないけど

家族で楽しめることそのものを求めるタイプ

というのが明らかで

 

どこに行こうが家族でいられることを

好むのが、息子と極端に違うのが

私にはその両方の気持ちがよーくわかりました。

 

よく行っていたハウステンボス

何が楽しみ!という

アトラクションはそこまでないのですが

 

やはり異空間で広々とした中で

4人で自転車に乗って散策したり、

食事したり、

 

主人が後ろを振り向きながら歩いていて

柱に股間を当てて痛い目に合って

大笑いしたりのハプニングで

子供たちが腹を抱えてまた笑う!

 

「笑い合える」

 

それは素晴らしい時間で、

 

いやなことも帳消しするといってもいい程、

子供のために、私と共に

いろんな所に連れて行ってくれる主人で、

 

大好きでしたし、はたから見ても

私たちは絵に描いたような家族でした。